ドラキュラZEROからアメリカの深淵をのぞく
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ドラキュラZEROからアメリカの深淵をのぞく

2014年11月01日(土)3:20 PM

ドラキュラZEROはなぜ公開されたか

 

  10月31日、ドラキュラZEROが公開されました。この映画の公式ホームページによると、「…膨大な数の世の中にあふれるドラキュラ物語のモデルとなった実在の男は、歴史に名を刻む〈英雄〉だった。15世紀半ばにトランシルバニア地方を収め、人々から敬愛された君主、ヴラド・ドラキュラ」。

 

  19世紀にアイルランドの小説家ブラム・ストーカーが世に送り出した「ドラキュラ」は、世界で最も有名なモンスターと言っていいでしょう。そして、そのモデルが15世紀のトランシルバニア、現在のルーマニア一帯を治めていたヴラド公だったことも、広く知られています。イスラームのオスマン帝国がヨーロッパ侵攻を図って東欧一帯を席巻した際、ヴラド公はこれと対決しました。しかし、殺害した敵兵を串刺しにして野ざらしにするなど、そのやり方があまりに残虐だという逸話が、後にストーカーが世界で最も有名なヴァンパイアを創作する際、インスピレーションを与えたといわれます。

 

  フランシス・コッポラが監督を務めた「ドラキュラ」(1992)も「人間らしいドラキュラ」を描いたものでしたが、今回の作品はそのさらに前の段階がメインテーマになります。つまり、今回の映画は「人間だったヴラド公が、なぜ恐るべきヴァンパイアになったか」に焦点があるようです。かなり大雑把にいえば、「オスマン帝国という巨大な外敵が現れたことで、それに対抗するために、闇に身を委ねてでも、家族や領地を守ろうとした」というストーリー構成だといえます。

 

  ただ、どうしても気になるのは、なぜ今、この部分をフォーカスした映画が作成されたのか、なぜ「その男、悪にして英雄」がキャッチコピーになっているかということです。もちろん、プロデューサーや監督から話を聞いたわけではありません。また、よく知られているストーリーを別の解釈で描き直す、というのもよくある手法です。ですから、何もそんなことを詮索する必要もないかもしれません。

 

  しかし、商業コンテンツ、ことに巨額の予算をかける映画は、製作者サイドの「これを作りたい」という欲求とともに、採算性という観点から、観客あるいは消費者のニーズに応える必要性に迫られます。その意味で、このハリウッド映画の製作者たちは、この映画がいまのアメリカの観客に受け入れられるだろうという目算を、多かれ少なかれ持っていることになります。それでは、「人間・ドラキュラ」を描くことで、マッチすると期待されている多くのアメリカ人の感慨とは、何でしょうか。

 

現代のアメリカとドラキュラZEROの接点とは 

 

  先ほども述べたように本作は、「オスマン帝国」という外敵が現れたことで、ヴラド公は「致し方なく」ヴァンパイアとなったというモチーフです。日本的な言い方でいえば、「盗人にも三分の理」といったところでしょうか。いずれにせよ、本作における「ゆるされざる本当の敵」はドラキュラではなく、歴史にその名を残す最後のイスラーム帝国、オスマン帝国です。ここに現在のアメリカ人の屈折をみることは、さほど邪推ともいえないと思います。

 

  対テロ戦争、なかでもイラク戦争(2003)は、アメリカに対する信頼を失墜させました。「フセイン政権から国際テロ組織に大量破壊兵器が渡っては危険だ」という、根拠が薄弱な報告に基づき、国際法にも反する形で一方的に軍事行動をとった結果は、大量破壊兵器は発見されず、国際テロ組織の活動をかえって拡散させてしまいました。テロの脅威にさらされていたアメリカ人の心理状態を斟酌するとしても、少なくとも「戦争の結果、フセインという独裁者が排除され、イラクが民主化された」というブッシュ大統領(当時)の主張は、あまりにご都合主義といわざるを得ないでしょう。

 

  その一方で、自国が犯した過ちを認めるのが難しいことは、いずれの国であれ同じです。そのなかで、客観的に振り返るよりむしろ、自らを慰撫する意見、すなわち「そもそも相手が悪い奴らだったのだ」とか「目の前の脅威に対抗するためには、やむを得なかった」といった主張がでやすいことも、これまたいずれの国であれ同じです。これをドラキュラZEROに照らして考えると、イスラーム世界の一つの象徴であるオスマン帝国を「巨大で邪悪な外敵」と描き、その出現に対して、自分たち(あるいはキリスト教圏)を守るために、ヴラド公は「もう一つの悪」に身を窶さざるを得なかったという話になるのであれば、それはつまり「やむを得なかった」という話になりがちです。これを単純化していえば、「イスラーム圏との対立は、結局相手の方に根源的な問題があったのだ」というメッセージになりかねません。

 

  アメリカの国際政治学者ジョセフ・ナイは、文化、理念、政策などで相手を引き付ける魅力を指して「ソフト・パワー」と呼びます。そして、ナイによると、映画などの「大衆文化は、個人主義、消費者の選択など、政治的に重要な影響を及ぼす価値観に関するイメージやメッセージをそうとは意識されない形で伝えることが少なくない…。アメリカ文化にはけばけばしさがあり、セックス、暴力、退屈、物質主義があるが、それだけではない。開放的で、流動的で、個人主義で、権威を嫌い、多元的で、自主性を重んじ、民衆の意思を尊重し、自由を重んじるアメリカの価値観を描いてもいる」(J.ナイ, 2004, 『ソフト・パワー』, 山岡洋一訳, 日本経済新聞社, p.84)

 

  確かに、ナイの言うように、映画などのメディア・コンテンツは、その社会の価値観を暗黙のうちに伝える力があるでしょう。そして、ハリウッド映画がアメリカの文化や価値観を世界に広める担い手として重要なことも、否定できません。ただし、そこで伝えられるイメージやメッセージは、ナイ自身が認めているように、自由や反権威主義などプラスのシンボルだけでないこともまた確かです。

 

  広く知られるように、1930年代のハリウッド映画の悪役は、多くの場合ドイツ人でした。そして冷戦時代、その座はロシア人に移りました。そして、1980年代の末、日米貿易摩擦を背景に、ごく短い期間、日本人が悪役で描かれる時期があり、その後はアラブ系やムスリムが多くなりました。つまり、実際にアメリカ政府やアメリカ国民にとって「敵」とイメージ化しやすい者ほど、悪役に描かれ、そのイメージが世界レベルで配信されることになります。言い換えれば、アメリカの世界認識がイメージ化されることになります。それは一方で、悪役に描かれる「他者」との間の溝を深めることに他なりません。

 

 アメリカの懐の深さとは

 

  さすがに現代では、かつてのように露骨に「他者」だけを「悪」と描くことは減りました。今回のドラキュラZEROでも、一応ドラキュラを「悪」と位置付けています。しかし、それ以上の「悪」としてオスマン帝国を描くのであれば、トーンの違いはあっても、従前のスタイルと基本パターンに違いはありません。

 

  様々な批判を浴びながらも、アメリカやハリウッドには、自らの過ちを後に認めるだけの懐の深さがありました。泥沼のヴェトナム戦争を「アメリカの正義」からかけ離れた視点で描いたオリバー・ストーン監督の「プラトーン」(1986)は、その象徴です。また、南部の人種差別を、リアリティをもって描いたアラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」(1988)をはじめ、同様の例は多数あります。このように自己批判をできるだけの力があったことは、他国からみて逆に信頼感を高めることとなり、ひいてはアメリカが世界の超大国の地位にとどまるうえで重要な役割を果たしたといえるでしょう。ところが、2000年代以降のハリウッド映画は、たしかにCGなどの技術は格段に進化したのでしょうが、「内省」という意味では(それがそもそもあの商業主義のハリウッドにあったのかというシニカルな意見もあるでしょうが)寒い状況があるように思えてなりません。

 

  もちろん、対テロ戦争は現在進行形で続いており、ヴェトナム戦争終結の11年後に公開された「プラトーン」がアカデミー作品賞を受賞したときとは、アメリカ人の「余裕」も違うでしょう。また、基本的に国家間の戦争であったヴェトナム戦争と異なり、対テロ戦争の場合は終結宣言で終わるものではありません。そのために、余計にイラク戦争だけピックアップして振り返ることが困難なことも確かです。

 

  しかし、その状況が続く中、アメリカ内部の世論や、アメリカ人の深層意識といった、いわば「アメリカの消費者」を意識して作品を作り続けることは、アメリカ国内の潜在的な需要を掘り起こすことには繋がるでしょうが、翻って「悪」と位置付けられた「他者」からの反感を招き、それ以外の者にもアメリカの「余裕のなさ」を印象付けることになりかねません。「誰をもって英雄とみなすか」は立場によって異なるものであり、ドラキュラZEROの「悪にして英雄」というフレーズは明らかに、ドラキュラあるいはそれが守ろうとしたキリスト教圏の立場に立つものといえます。これに鑑みれば、ドラキュラZEROには対テロ戦争を背景とした「宣伝映画」としての違和感がぬぐい難いといえるでしょう。



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